ローザンヌ誓約


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第11項 教育とリーダーシップ

 私たちは、今まで、教会成長を考えるあまり、時として教会の深みという面を軽視したり、伝道をキリスト教教育(ナーチュー)から切り離してきたきらいがあったことを告白する。また、一部の宣教団体は、土着の指導者たちが正当な責任ある位置につけるように、彼らを奨励し、育成することにおいておくれていたことを認める。私たちは、あくまでも自主自給の原理に立つものであり、すべての教会が、支配ではなく奉仕に特色づけられたキリスト教的リーダーシップをあらわし得るような、それ自身の土着の指導者を持つようになることを切望する。私たちは、神学教育の改善、とりわけ教会の指導者たちのための教育の改善は急を要する問題であることを認める。すべての国、すべての文化の中に、教理、弟子道(ディサイプルシップ)、伝道、教育、奉仕の面における、牧師とレイマンのための有効な養成プログラムの確立がはかられなければならない。そのような養成プログラムは、既成の型にはまった借物に頼るのではなく、聖書的な基準に立ちつつ、それぞれの地城の主導性と創造性とによって開発さるべきである。

(コロサイ1・27、28、使徒14・23、テトス1・5、9、マルコ10・42-45、エペソ4 ・11、12)

 

第12項 霊的闘争

 私たちは、教会を倒し、教会の世界伝道のわざを失敗に終らせようと絶えずもくろんでいる悪の力と支配とに対する、たゆまざる霊的闘争のただ中に置かれていると信じる。また、私たち自身を神の武具をもってよろい、真理と祈りの二つの霊的武器をもって戦い続けてゆく必要のあることを知っている。私たちの敵の活動は、教会の外にある偽りの諸思想の中ばかりではなく、聖書を曲げ、人間を神の位置に置こうとする、教会内部に存在する偽りの福音の中にも探知できる。私たちは、聖書が提示している福音を守るために、絶えず目を覚まして監視しなければならないとともに、識別力をも身につける必要を感じる。私たちは、思想と行動の両面における世俗化の危険、すなわち、世俗主義への屈伏という危険から決して免疫となってはいないことを認める。例えば、教会成長に関する数的・霊的面面からのきめ細かな研究は正当であり価値あるものであるにもかかわらず、時として、私たちは、それをなおざりにしてきた。他方、福音への応答を得たいという一念にかられて、時として、メッセージそのものを妥協させたり、押しつけがましい方策をろうして聞き手をあおったりすることもしてきた。また、過度に統計に心を奪われたり、それを用いる場合に不誠実でさえあったことをここに反省する。これらのことはすべて、この世的なことである。教会はこの世に存在しなければならないが、この世は教会の中に存在してはならないのである。

(エペソ6・12、IIコリント4・3、4、エペソ6・11、13-18、IIコリント10・3-5、Iヨハネ2・18 -26;4・1-3、ガラテヤ1・6-9、IIコリント2・17;4・2、ヨハネ17・15 )

 

第13項 自由と迫害

 神がすべての政府に託されたつとめは、教会が干渉を受けることなく神に従い、主に仕え、福音を宣べ伝えることができるように、平和と正義と自由のための諸条件を確保することである。ゆえに、私たちは、国家の為政者たちのために祈るとともに、彼らが神のみ旨にかなった、そして、国連の「世界人権宣言」(1948年)に打ち出されているような思想と良心の自由、宗教的諸活動の自由を保障するように呼びかける。さらに、不当に投獄されているすべての人々のために、また、特に主イエスのあかしのために苦しめられている私たちの兄弟姉妹のために、深い心の痛みを覚える。私たちはここに、彼らが自由にされるために、祈りかつ労することを約束する。とともに、私たちは、彼らの苦境をみて決しておじけづくものではない。神の助けによって、私たちも、代価がどんなに大きくとも、断固として不正不義に立ち向かい、福音に忠実に生き続けるものである。私たちは、迫害は必ず起ると警告されたイエスのことばを忘れない。

(Iテモテ1・1ー4、使徒4・19;5・29、コロサイ3・24、ヘブル13・1-3、ルカ4・18、ガラテヤ5・11;6・12、マタイ5・10-12、ヨハネ15・18-21 )

 

第14項 聖霊の力

 私たちは、聖霊の力を信じる。父なる神は、ご自身の御子をあかしするために、ご自身の御霊を送りたもうた。御霊のあかしがなければ、私たちのあかしは不毛に終る。罪の自覚、キリストへの信仰、新生、キリスト者としての成長-これらはみな御霊の働きである。この御霊は、また、宣教の御霊(ミッショナリー スピリット)でもある。ゆえに、伝道は、御霊に満たされた教会のうちより自発的に湧き上がるべきものである。したがって、宣教的でない教会というものは、自己矛盾であり、御霊を消そうとするものである。世界大の伝道は、御霊が、真理、知恵、信仰、聖潔、愛、力において教会を新しくつくり変えられる時にのみ、真の意味で可能となるのである。それゆえ、私たちは、御霊のすべての実が神の民全体のうちに現れ、御霊のすべての賜物がキリストのからだなる教会を豊かに潤すような、神の主権的な御霊の訪れが与えられるように祈ることを、すべてのキリスト者に呼びかける。そのような時にのみ、全教会は初めて、ご自身の御手のうちにあってご用にふさわしい道具となることができ、全地が神の御声を聞くことができるようになるのである。

(Iコリント2・4、ヨハネ15・26、27;16・8-11、Iコリント12・3、ヨハネ3・6-8、IIコリント3・18、ヨハネ7・37-39、Iテサロニケ5・19、使徒1・8、詩篇85・4-7;67・1-3、ガラテヤ5・22、23、Iコリント12・4-31、ローマ12・3-8 )

 

第15項 キリストの再臨

 私たちは、イエス・キリストが救いと審判を完うするために、力と栄光のうちに、人格的、可視的に再臨されることを信じる。この再臨の約束は、私たちの伝道に一層の拍車をかけるものである。なぜなら、福音はまず全世界に宣べ伝えられて、それから終りが来ると言われた主のことばを与えられているからである。私たちは、主の昇天と再臨までの中間期は、神の民による宣教活動によって満ちあふれるべきであり、神の民は終末以前にそれをやめてしまう自由を持っていないと信じる。さらに、さまざまな偽キリストや偽預言者が最後の反キリストの前触れとして現れると言われた主の警告を憶える。したがって、私たちは、人間がこの地上に楽園を建設できるという考えを、高慢な自己過信に基づく夢想として拒否する。私たちキリスト者の確信は、あくまでも神がみ国を完成なさるということである。ゆえに、私たちは、正義が住み、神が永遠に支配されるところの新天新地の出現するかの日の到来を熱心に待ち望む。こうした状況の中で私たちは、私たちの全生活に及ぶご自身の権威に喜んで服しつつ、キリストと人々ヘの奉仕のために、献身の念を新たにするものである。

(マルコ14・62、ヘブル9・28、マルコ13・10、使徒1・8-11、マタイ28・20、マルコ13・21-23、ヨハネ2・18;4・1-3、ルカ12・32、黙示21・1-5、IIペテロ 3・13、マタイ28・18)

 

結び

 私たちは、以上の信仰と決意とに立って、全世界の伝道のために、ともに祈り、ともに計画を練り、ともに労することを、神に対し、また参加者相互の間に厳粛に誓約する。私たちは、他の人々にも、これに参加するように呼びかける。願わくは、神が御恵みによって、ご自身の栄光のために、私たちをこの誓約に忠実たらしめたもうように助けたまわんことを。アーメン、ハレルヤ!

 

宇田進 訳

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