解説


ケープタウン決意表明を読んで 内田和彦

2010年10月16日から10日間、アフリカの南端、ケープタウンにおいて、第3回ローザンヌ世界宣教会議が開かれ、その結果『ケープタウン決意表明』が公にされました。

1.ローザンヌ誓約から、マニラ・マニフェストを経て、ケープタウン・コミットメントへ

(1)開催地

第1回ローザンヌ世界宣教会議は1974年、スイスのローザンヌで開かれました。1910年にも、エディンバラで歴史的な世界宣教会議が開かれましたが、1,200人の参加者の大半は北米と欧州の教会の代表でした。つまり「世界」の文字があっても、それは「世界の宣教を考える」ということであって、主体は西欧の教会でした。しかし、60数年後ローザンヌに集まった2,700人は150以上の国を代表していました。西欧中心のキリスト教会が、1970年代になってようやく「世界の教会」となり、世界全体で話し合う時が訪れたのです。しかし、現実には未だ西欧の教会に多くを負っていましたし、福音主義に立つ運動として、教会の歴史や伝統との連続性も大切でした。ですから、欧州の中央、ローザンヌにおける開催は自然なことでした。

それから、15年後の1989年、第2回ローザンヌ世界宣教会議は、フィリピンのマニラで開かれました。英国起源のある宣教団体が既に本部をシンガポールに移していたことからわかるように、非西欧の教会が重みを増していく中でのアジア開催となりました。そして世紀が改まり、非西欧でも南半球の教会が急成長している状況で、第3回会議の開催地は南ア共和国のケープタウンとなりました。アフリカの教会の驚異的な成長に触れつつ、アパルトヘイト等の負の現実にも目を向けつつ伝道を再考することは、意義深いことでした。このように開催地の選定にも、世界の動向と神のみわざの進展に努めて敏感であろうとする、ローザンヌ運動の性格が反映されていると思われます。

(2)公式声明の名称

ローザンヌでは誓約、マニラでは宣言、そしてケープタウンでは決意表明が公にされました。最初の声明が「誓約」(カベナントcovenant)とされたことについて、ジョン・ストットは「私たちは、ただ何かを宣言するだけではなく、何かをしようと決意したのである。つまり、世界伝道のつとめに私たち自身が専心従事することを決意したためである」と説明しています(宇田進訳『ローザンヌ誓約――解説と注釈』6頁)。マニラでの声明は「宣言」と訳されていますが、declarationではなく、マニラという地名にかけたmanifestoです。この語は政治の世界でも多用されていますが、やはり実行を約束するものであり、「誓約」の精神を継承しています。

そして今回は、「決意表明」、コミットメントcommitmentです。公にされた決意の表明であるという点では、カベナントやマニフェストと変わりませんが、前二者に比べて身近な言葉です。誓約や宣言は簡単には出せませんが、「決意表明」ならば、日常的に言い表せます。初めて「ケープタウン・コミットメント」という言葉を目にしたとき、頭文字Cで合わせるために「見劣りする」言葉になったのかと思いましたが、内容を読み通して、その見方が間違っていたことに気づきました。まさに今回明らかにされた声明は、宣教や伝道の課題を高邁な理念として掲げるより、日常生活において実行する方策を示すものであったからです。まさに、ケープタウン・コミットメント、CCでよかったのです。

2.全体の構成

CCは2部から成っています。パートIは信仰の告白ですが、まず驚かされるのは、「私たちは告白します、信じます」でない、「私たちは決意します」でもない、「私たちは愛しますWe love」で終始していることです。最初に、「神がまず私たちを愛してくださったから」と、愛の告白の土台を示した後に、「私たちは生ける神を愛する」からスタートし、父なる神、子なる神、聖霊なる神への愛、神の言葉である聖書、神が創造された世界、神がもたらされた福音、神の民である教会に対する愛を表明、最後に「神の宣教を愛する」で結びます。

パートⅡは行動への呼びかけで、六つの課題が挙げられています。縮めて言えば、「真理を証する」「平和を築き上げる」「愛を生きる」「みこころを見分ける」「教会を呼び戻す」「(教会という)からだにおいて協力する」で、それぞれの名詞に「キリストの」がついています。始めの四つは主として今日の世界の現実、後の二つは教会のあり方に関わるものです。

3.全教会が、全世界に、福音の全体を

ローザンヌ誓約は、伝道を「全教会が、全世界に、福音の全体をもたらすこと」と定義しました。これを受けてマニラ・マニフェストは、「福音の全体」が何を意味するか、「全教会」が伝道に当たるにはどうしたらよいか、そして「全世界」がどのような現実にあるのかを12項目にまとめ、実行すべきことを公約しました。CCはこのような枠組みで決意表明をしてはいませんが、福音とは何かを提示し直し、使命を効果的に果たすために、教会全体のあるべき姿と福音を必要としている世界の実状を明らかにしようとしています。

(1)福音の全体を

ローザンヌ誓約は、「伝道と社会的政治的参与の両方が、ともにキリスト者の務めである」と述べて、伝道至上主義に陥っていた福音派の教会に、福音の包括的理解を回復しました。CCも、伝えるべき福音の全体を表現する努力を継承しています。義認、和解、罪の赦し、新生、子とされること、神の民、神の家族への帰属、聖霊の内住の宮、永遠のいのちなど、救いの恵みを確認する一方で、地球環境の破壊や貧困、人権侵害、不正、暴力、抑圧の存在する今日の世界で、社会的な取り組みがますます急を要するものとなっているとしています。また、福音は個人の救済や社会の変革にとどまらず、キリストの十字架による万物の和解を含むものであると説いています。キリストの再臨によって正義と平和がもたらされ、神ご自身による永遠の支配が実現する救いの完成まで、福音として語らなければならないとするのです。

(2)世界の全体に

福音を伝えるべき世界は、相対主義、多元主義、世俗主義の影響下にありますから、こうした思想と対峙して福音が真理であることを弁証しなければなりません。また、多くの混乱や対立、差別や疎外で傷んでいる今日の世界で、教会はキリストの平和を実現していかなければなりません。

世界の全体にということでは、今回も福音に接することのできない人々の存在に目を向けていますが、それとともに文化的な見地から、未伝となるおそれのある「口述文化」の人々に関心を払っています。世界人口の過半数に及ぶと言われる、話し言葉でコミュニケーションをとる人々に私たちは新たな注意を向けなければなりません。また都市に住む人々や子どもたちに対する伝道の緊急性も見のがすわけにはいきません。

(3)教会の全体が

宣教は「福音派」内部で完結するものではありませんから、真のエキュメニズムがこれまでも模索されてきました。今回の会議には、「福音派」以外の教会の代表者たちも招かれました。ダグラス・バーザル総裁は、「他の伝統の中に主イエス・キリストに従う人々が数多くいることを喜びのうちに認め」、すべての教派の教会にとって有益なものとなるように謙虚な心をもってCCを提示する、と語っています。CCの序文は「全世界のイエス・キリストの教会の一員として、私たちは」という言葉で始まります。メシアニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)を教会の一員として受け入れるようにという勧めも、なされています。しかし、全教会ということは単に諸教派を糾合することに留まりません。全大陸にわたるキリストのからだなる教会の一体性を自覚するとか、苦難に遭っている教会との連帯を実現するといったことも求められています。

また、教会の全体が伝道に取り組むには、これまでも取り上げられた教職中心主義、男性優位主義の克服が必要です。さらに、今回の声明には大人だけでなく子どもも、という新たな呼びかけもあります。子どもたちを伝道の対象とするだけでなく、彼らを神の業の担い手として見ているのです。このように、世界のすべての地域、すべての教派、教職信徒、老若男女すべての層のキリスト者の、生活の全領域における証こそが、全教会による宣教であることをCCは明らかにしているのです

4.内容の特徴

CCの特徴を七つ挙げたいと思います。最初の三つは聖書的、歴史的、神学的ということです。世界宣教について聖書に教えられ、歴史に根ざし、神学的な省察を加えているからです。また、全人格、実際的、今日的、誠実さという四つの特徴も認められます。全人格的な応答を求め、今日の現実に即して実際的な提案をし、自らも含めて問題を誠実に認めているからです。どの特徴が欠けていても、決意表明は空しいものとなり、豊かな結実を期待することはできません。

(1)聖書的

CCはあくまでも聖書的であろうとしています。「私たちは愛する」という表現自体、聖書に教えられたものです。主イエスも使徒たちも、神と隣人に対する愛こそが最も重要であるとしました。しかしまた、CCは愛を厳密に規定します。愛という言葉につきまとう世俗的、人間中心的なイメージを払拭し、弱いものでも感傷的でもない愛、力強い愛であることを、聖書から明らかにします。神の賜物であると同時に命令でもある愛、真の愛はキリストに見られるものであること、神への愛が薄められ、不純になり、不徹底なものとなる罪の現実を指摘して、あくまでも聖書的な愛を追求するのです。

しかし、聖書に忠実であることは、容易に実現できるわけではありません。聖書の言葉をつなぎ合わせれば「聖書に忠実な」声明が生まれるわけではありません。相対主義、多元主義の世界で聖書を絶対的な権威として掲げることの困難さを自覚しつつ、「私たちは神の言葉を愛する」と告白するのです。知的なレベルにおいて聖書に忠実であることに留まらず、生活が聖書の教えによって変革されて初めて、神の言葉に対する愛を証しできるとします。聖書に従おうと努めている聖書信仰者たちの間で、意見の分かれる事柄のあることを率直に認めつつ、聖書の真理に従い続けようとするのです。

(2)歴史的

CCは歴史を重視します。所々でローザンヌ誓約とマニラ宣言、ローザンヌ運動から生まれた他の文書から引用し、それらの土台の上にCCを築き上げようと努めています。また、使徒たちの教会に連なるのはもちろんですが、アブラハムに遡る旧約の神の民に連なるものとして、自らのアイデンティティを理解しています。福音主義キリスト教が近代の産物、20世紀、21世紀の産物ではなく、旧約と新約の時代から連綿と受け継がれてきた信仰であることを明らかにするのです。

また歴史の重視は、新約の福音の歴史的性格、イエスの生涯の歴史性を述べるところにも見られます。受肉から始まる生涯、死と復活、昇天と再臨の全体を歴史的なものとして捉えることによって「キリスト」が単なるシンボルになることを防いでいるのです。何回か福音の「ストーリー(物語)性」が語られていますが、それも歴史的であるからこそのストーリー性であって、歴史性と対立するストーリー理解に陥らないようにしなければなりません。

(3)神学的

全世界に伝道するためにすべての教会が力を合わせることを目指すことは、無分別に何でも受け入れてしまうことを意味しません。神学的な批判が加えられなければ、宣教はいつの間にか内実を失うことを、CCは自覚しています。例えば、聖霊の働きの重要性を強調しつつ、「聖霊の名の下に正体を隠している多くの乱用があることを、私たちは認識している」として、キリスト教を装ったカルトに対する警戒を呼びかけています。

また当然のことですが、CCは現代の反キリスト教的世界観と対決する弁証論的課題を意識し、ポスト近代の相対主義、多元主義哲学に反論を加えています。それでいながら極端に論争的ではありません。「他の信仰を持つ人々」も神のかたちに造られた存在であるとし、彼らの隣人になるという「崇高な召し」がキリスト者に与えられているとします。また、新しい運動が登場するとき、それを性急に受け入れて推進することも、糾弾して退けてしまうことも避けるように勧めます。このように、CCにはバランスのとれた神学があります。自らの文化で信仰を表現するとき、一見したところ混合主義(シンクレティズム)には見えない混合主義に直面する危険性がある、と忠告されるとき、現象の背後にあるものを見きわめる慧眼が私たちに求められていることを覚えるのです。

神学的なアジェンダの中には、容易に「決着」のつけられないものがあります。その最たるものとして、女性教職の是非をめぐる問題があります。これについては、三つの見解を併記した上で、互いの立場を尊重するようにと呼びかけ、宣教におけるパートナーシップが損なわれることのないように配慮しています。

(4)全人格的

神の愛に対して私たちが愛をもって応答しようとすれば、全人格を傾けたものとなるのは当然です。単なる理解ではない、単なる決意でもない、知だけでも情だけでも意だけでもない、人格のすべての営みをもって神に応答すべきだ、という訴えがCCにはあります。その応答はまた、キリスト者の生活の全体において求められるものです。聖俗二元論を排し、生活のすべての領域において主を認めるのでなければ、人格は分裂します。

さらに、福音を伝える者たちの中に生じるべき変革が、全人格的であるということも重要な指摘です。知識や教える能力だけでなく心、人格、敬虔な人柄を持つリーダーが育てられるべきことが強調されています。まさにブレインだけでなくハート、ハートだけでなくブレインです。

(5)実際的

CCは自らを今後10年間のローザンヌ運動のロードマップであるとしています。具体的な行動への呼びかけは、既に「誓約」においても表現されていましたが、それがさらにきめ細かいものとなりました。

例えば、政治や司法で指導的立場にある人々に、神は貧困や抑圧の責任を問う、とまで述べています。単に「キリストの平和を築き上げる」と述べるにとどまらず、赦すこと、不正に対して異議を唱えること、対立する相手を親切にもてなすこと、復讐するより苦しみ、死ぬことを厭わないこと、紛争終結後、教会を安全な避難場所とすること等、具体的な提案をします。

しかし、CCの実際的性格を最も端的に表しているのは、パートⅠとパートⅡの結びにある「考えるヒント」です。それを手がかりにして各自が、あるいはグループで、「自分に何ができるか、何をなすべきか」を考えることができます。例えば「あなたの友人、隣り人、家族の中で、キリストを信じていない人のことを思い浮かべよう」といった提案があります。これに答えることによって、「だれかがしてくれるだろう」ではなく、自らの課題を自覚してオリジナルな工程表を作ることができるのです。このようにして、会議の参加者だけでなく、CCを読むすべてのキリスト者が、自らの課題に気づき実行していくことが、まさにローザンヌ「運動」なのです。

(6)今日的

ローザンヌ運動は、世界の現実に向き合ってきました。そのような努力の結果が、CCのパートⅡに表現されています。会議中は、エペソ書の講解ばかりでなく、互いの分かち合いを通して、世界中の神の民の声が届けられ、参加者はそこに神の声を聞こうとしました。その努力は会議の最終日をもって終わらずに、しばらくインターネットを通じて続けられました。グローバルな教会の生の声を聞いた上で、CCの最終的な文面を確定するという手続きが取られたのです。

CCは、今日の世界が直面している諸々の現実に目を向けます。悪化の一途をたどる地球環境、政治的な混乱や社会的な不正、性の乱れ。奴隷制度や人身売買もあります。問題は貧困だけでなく、繁栄の中にもあります。「数億人の子どもは繁栄による危険にさらされている。富と安全を享受する人々の子どもは、生きるために必要なものはすべて持っているが、生きる目的を持っていない」と述べるのです。

しかし、CCが見ている現実は困難や問題だけではありません。伝道に資する様々な可能性にも目を留めるのです。例えば、様々なメディア、演劇、ダンス、音楽、映画といった芸術活動、バイオやナノ、人工知能といった先端技術の開発において、キリスト教的世界観に立った批判的かつ創造的な取り組みがなされることを期待しています。そのような分野で働くキリスト者を励まし、ネットワークを構築することによって、公共政策の方向づけに影響を与えていくようにと勧めるのです。

さらにCCは、今日の世界の動向に宣教の新たな機会を見出します。その一つは「ディアスポラ」宣教の可能性です。「自発的または非自発的な理由で、2億人が自分の出身国ではない地に住んでいる」事実に目を留め、他宗教を持つ移民のコミュニティにもキリストの愛を証するようにと励ますのです。

(7)誠実さ

CC全体に見られる誠実さは実に印象的です。ローザンヌ誓約、マニラ宣言を自分たちが誠実に実行してこなかったことを率直に認めます。福音を知る機会のない人々のグループが、未だ何千もあることを認識せず、伝道に切迫感を欠いていることを悔い改めるようにと呼びかけます。また、過去の宣教における過ちも率直に告白します。例えば、文化の中には「サタンと罪の指紋」もあり、文化の聖化という課題があることも覚えつつも、先住民の文化を一方的に抑圧してきたことは誤りであったとするのです。 

また、社会の動きに無批判に同調してきた教会の過ちも指摘します。人種差別、奴隷制度、ホロコースト、アパルトヘイト、「民族浄化」などにクリスチャンが関与したこと、大半の教会が沈黙してきたことをCCは悲しみ、恥じるのです。

最も顕著なことは、教会自身が変革を必要としている事実を正直に、そして繰り返し認めていることでしょう。急成長を遂げている教会にしばしば問題があること、「成功」の陰に指導者たちの腐敗のあることを告白します。「リーダーを訓練して敬虔でキリストに似た者となるようにするというのは、順序が逆である。聖書によれば、成熟した弟子の生き方の基本的資質をすでに示している者だけが、そもそもリーダーに任命されるべきである」といった主張は、まさに偽リーダーで苦しんだ教会だからこそ指摘できることです。「神の御名を汚し、福音の信用を失わせるようなリーダーについては、神が叱責し、排除し、悔い改めに導いてくださるようにと私たちは祈る」と、CCは切々と訴えます。

しかし、問題は一部の指導者だけのものではありません。パートⅡの項目Eは全教会に悔い改めを迫るものです。宣教の前進を妨げる最大の障害物、神の民の中にある貪欲、性、権力、成功といった偶像を捨てるようにと呼びかけるのです。繁栄の福音を「偽りの福音」と断じ、クリスチャンの夫の妻に対する暴力(DV)や宣教のレポートにおける不誠実な報告にまでメスを入れるのです。

終わりに

私たちはCCを単なる決意の表明で終わらせてはなりません。CCを個人として、教会として学び、分かち合い、そのチャレンジに応え、神ご自身の宣教の幻を共有させていただきたいと思います。「主よ。私たちをあわれんでください。あなたの民を、あなたの造られた世界を、あなたご自身を、あなたのみこころを愛し行う者とさせてください」

 

 

(日本福音キリスト教会連合・前橋キリスト教会牧師、

日本福音主義神学会東部部会前理事長)