すべての教会は、全世界に福音をあますところなく宣べ伝えるために召しだされている。
福音宣教は特定の状況の中でなされるのであって、真空の中でなされるのではない。福音と、所与の状況の間の関連については、正しい判断が必要である。福音を伝えるためには、正しい状況判断が必要であるが、状況に合わせるために福音の真理を曲げることは許されない。
ここでは「現代化」の持つ影響力に特に注目したい。それは、技術文明に伴う産業社会と、経済機構の変化に伴う都市化によってもたらされた世界的な文化革命の及ぼす影響力である。これらの影響力は、色々な形で、今日見るような世界の状況をつくりだしている。世俗化の波は、神とか超自然的なものを無意味にして、信仰を荒廃させ、都市化は多くの人たちの生活を破壊し、マス・メディアは、言葉をイメージに置き換えて、真理や権威の所在を曖昧にしてしまった。こうした「現代化」の結果、説教されるメッセージの意味は変わり、宣教の動機は損なわれてしまった。
20世紀の初め、都市に住んでいた人たちは、世界人口の9パーセントにすぎなかった。今世紀の終りには、それが50パーセントに達する見込みである。世界的な都市化現象は「人類史上最大の人口移動」と呼ばれ、宣教にとっても大きな課題となっている。都市の人たちは、非常に国際的であり、1つの都市の色んな国々の文化が共存する。福音は、人種や国籍を超えるものであるから、誰でも受け入れられるような国際的な教会はつくれないものであろうか。また、一方では、都市に流入した貧しい人々は、福音に対して心が開かれている。既成の教会は、都市化の問題をはらむ貧しい人々の住む地域に引越しして、その地域で奉仕をし、都市を活性化することはできないであろうか。
「現代化」は一方では祝福であり、一方では危険を伴っている。世界的規模の情勢や経済交流によって、福音は空前の機会を与えられている。それが、伝統的な社会であれ、全体主義的社会であれ、閉鎖された社会の中に浸透し、古い境界線を突破してゆくことができるのである。今世紀末までには、世界のあらゆる主要な国語で福音が放送される予定になっている。
「現代化」の及ぼす悪影響について、これまで十分な研究が進められてこなかった。その方法や手段を無批判に用いてきたために、いつの間にか世俗化の影響下に置かれたことも事実である、しかし、これからは、「現代化」の持つ意味と機会について十分に検討し、それが世俗化の危険があるならば斥け、むしろ現代文化全体にキリストの主権が及ぶように努めなければならない。こうして、現代の宣教事業において、世俗化することなく、全世界に福音を伝えるように努力するのである。
世界人口は今日、60億人に達しようとしている。その3分の1が、名前のうえでは、クリスチャンである。これらの人々は4つに分類することができる。
第1は、生ける信仰者であって、宣教事業の担い手となる可能性を有している。今世紀のはじめに4千万に過ぎなかったクリスチャンが今では5億に達しており、他のどのような宗教団体よりも2倍の早さで今も成長している。
第2は、名目上のクリスチャンである。(彼は、通常、洗礼を受け、時々、教会に出席し、自分もクリスチャンと称している)。しかし、キリストと生ける交わりを持つということは経験することがない。名目上のクリスチャンは、世界中どの教会にも見られるのであって、再生の必要がある。
第3は、伝道の直接対象となる人々である。彼らは、キリストについて聞いたことはあるが、ハッキリと応答する機会を持ったことはない。隣人や、同一市町村の中に、いつでも伝道の対象として接触しうる人々である。
第4は、まだ福音を聞いたことのない人々である。救い主イエスについて全く聞いたことのない20億の人々で、普通、クリスチャンが接触する機会を持たない人々である。今日、2000以上の部族、民族や国家では、強力な地域教会が存在していない。彼らは、お互いに同族関係を持つ者としてお互いに認め合っている小さな種族と考えることができる。彼らに接触することができる最良の宣教者は、その文化や言語を同一にする人々の中から回心した信仰者である。もし、そうした信仰者がいない場合は、自分の文化的背景を捨て、福音を伝える人たちと同化できるような犠牲的な宣教師によらねばならない。
今日、2000の大きな部族の中に、さらに細分化された1万2000の小部族グループが存在する。そして、世界の宣教師の93パーセントはすでに福音が伝えられた地域に存在し、7パーセントだけが未伝道地で伝道をしている。もしこのアンバランスが修正されなければならないとすれば、人材の戦略的再配置が必要とされるであろう。
前述の分類による伝道戦略を効果あるものとするために障害となっている要素は、接触の難しさである。今日、多くの国々では、他の資格や働きを持たず、ただの宣教師の資格だけで入国する人にビザを発行しない。しかし、そうであるからといって接触不可能というわけではない。祈りの力は、どのようなカーテンでも、扉でも、障害物でも通過することができるからである。また、ラジオ、テレビ、カセットビデオ、カセット、フィルムや文書などを通して、困難に見られるところも乗り越えることができる。また、パウロと同じように、「天幕造り伝道」によって自活しながら伝道することもできる。彼らは自分の職業をいかしながら(例えば、実業家、大学講師、技術家、語学教師など)、イエス・キリストをあかしするためにあらゆる機会を用いるのである。彼らは偽って他国に入国するのではない。なぜなら、その職業そのものが、出かけて行った地域で必要とせられているからである。ただ、どのような場合でも、イエス・キリストをあかしせずにはいられないという生活全体が福音の香りを放つのである。
イエス・キリストの十字架と復活後2000年たった今もなお、全世界の人口の3分の2が、キリストを信じていないことは、遺憾である。しかし一方では、地球上の全く福音の届かないような所においてでも、神の御力が及び奇跡がおこっていることに驚くのである。
今21世紀を迎えるにあたって、多くの人口がこれを、1つの重要な神からのチャレンジの時として受け取っている。私たちは紀元2000年になる前のこの最後の10年間に全力で伝道しようとしているだろうか。2000年といい、その前の10年といい、数字自体に魔術的な意味があるわけではない、それにもかかわらず、私たちは、これを1つの目標として全力を注ぎたいのである。キリストは全世界の人々に、行って福音を宣べ伝えるようにと命じられた。その働きの遂行は緊急性を持っている。私たちは、喜びと希望を持って、キリストに従って行く決心である。
イエスは、弟子たちに迫害は当然やってくると預言された。「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します」(ヨハネ15:20)。迫害を受けることを喜びなさいとすらおっしゃっている。(マタイ5:2)。また、麦は死ぬことによって、豊かな実を結ぶとおっしゃっている(ヨハネ12:24)。
クリスチャンの苦しみが不可避であるとともに、それを通して豊かな実を結ぶことは、あらゆる時代にあてはまる真理であり、今日においてもまたしかりである。どの時代においても多くの殉教者たちがあり、今日もそうである。私たち、ソ連や東欧諸国で、グラスノスチとペレストロイカが完全な信仰の自由をもたらすようにと願っている。また、イスラム圏やヒンズー教徒の地域で、福音がもっと自由に宣べ伝えられるようにと願っている。中国での恐ろしい民主化弾圧を考える時、クリスチャンがこれ以上迫害されないようにと真剣に祈るものである。全体的に言えば、古来の宣教は、より不寛容になり、キリスト教への回宗派に対して厳しくなり、福音に門戸を閉ざす地域が世界の中に広まっている。
このような状況の中で、キリスト教に対して厳しい態度を取っている政府に対して三つの釈明をしたい。
第1に、クリスチャンは忠実な市民であって国家に福祉をもたらすために努めている。彼らは指導者たちのために祈り、税金を支払う。もちろん、イエスを主と告白する者は、他の権威を神として拝むことはできない。キリスト以外のものを拝むことはできない。しかし、市民としては善良な人々である。結婚生活を守り、家庭を尊び、勤勉に働き、正直に商売し、福祉のために奉仕することによって国家に益をもたらしている。それゆえ、国家はクリスチャンを恐れる必要は何もない。
第2に、クリスチャンは、福音にふさわしくない伝道方法を遂行しない。福音は他の人々に分かち合うものであるが、それを伝える方法は、正直で、公明正大であり、聞いた人たちがどのように受け取るかは全く自由である。
他の信仰をもった人々の立場にも理解をもち、キリスト教の信仰を強制的に押し付けようとは決して考えない。
第3に、クリスチャンはキリスト教についてだけ信仰の自由を願うのではなく、どのような宗教についても、信教の自由が保証されるよう願っているのである。キリスト教国において、他の宗教を信じる少数の人々の信教の自由のために努力しているのはクリスチャンたちである。それと同じように、クリスチャンたちは、彼らが少数派である国において最低の信教の自由が保証されることを願っている。宗教を「信じ、実践し、教布」する自由は、人間の権利についての普遍的な宣言の中に定義されているように、相互に認あるべきであり、またそうすることは可能である。
イエスに従うものとして、誤解を受けるようなあかしがあったことは認めなければならない。イエスの名の名誉が傷付けられるような不必要なつまづきを与える行動は慎むべきである。しかし、十字架につけられたキリストのために、喜んで苦しみを受け、死をも甘受することができる力を与えられるよう祈っている。殉教は、キリストが喜んで受けるように約束された、あかしのためのひとつの形である。
「主が再び来られるまでキリストを宣べ伝えよう」というテーマがローザンヌ第2回会議で宣言せられた。キリストは、アウグストスがローマの皇帝であった時に、おいでになった。しかしまた、約束のとおりに、御国を完成するために、想像を絶する栄光のうちにおいでになる。私たちは目を覚まして準備ができているようにとすすめられている。それまでクリスチャンは、宣教のわざをするようにと召されている。キリストは、地のはてまで福音をたずさえて行くようにと命じられた。そして宣教のわざが完全になされた時、世の終わりが来ると約束せられた。この世の終わりが来ると、この地上のすべては滅び新天地が現れる。それまで、キリストは、目に見えないが、信仰者が共にいて下さるのである。
福音宣教のわざは急務である。それがいつ迄なのか私たちは知らない。ただ無為に過す時は1分もないことは確かである。このような緊急のわざを私たちが責任を持って果たそうとするならば、一致と犠牲的精神が必要である。一致とは、心を1つにして福音を宣べ伝えることであり、犠牲的精神とは、喜んであらゆる犠牲を払うことである。ローザンヌ誓約では「全世界に福音を宣べ伝えるために、ともに祈り、計画し、働く」ことを約束した。今、マニラ宣言においては、すべての教会が世界の隅々まで福音をあますことなく宣べ伝えるように召されていることを確認する。そのわざは急務であって、一致と犠牲的精神を持って、キリストが再びおいでになる日まで、福音を宣べ伝えるのである。
鍋谷尭爾 訳