マニラ宣言


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A.あまねく福音を伝えよ

 福音は、神の救いのよきおとずれである。それは、神が、悪の力から私たちを救い出し、永遠の御国を樹立し、神の目的を阻むすべてのものに対する最終的な勝利をなさることである。神は、天地創造のはじめから、愛のうちにこの御計画を立て、私たちの主イエス・キリストの死によって、罪と、死と、さばきから解放の御計画を実行に移された。キリストは私たちを自由にし、贖いの血による交わりのうちに、私たちを一つにして下さる。

 

(1)人間の状態

  私たちクリスチャンはあますことなく福音を伝えるようにとの召しを受けている。それは、聖書的な福音をあますことなく伝えることである。そうするためには、人類がなぜ福音を必要としているかを理解しておかねばならない。人は、侵すことのできない尊厳と、価値を生まれつき持っている。それは、神を知り、愛し、仕えるようにと神の形に似せて作られているからである。しかし罪によって、そのような固有の人間性は、すべてけがされてしまった。人類は神を愛せず、隣人も愛せない自己中心的で、自分の利益のみを求める反逆の輩(やから)となった。その結果、人類は創造者なる神と他の被造物から切り離されているのであり、それが今日多くの人々が苦しんでいる苦痛と無目的と孤独の根本的な原因である。罪は又、しばしば反社会的な行動、他人への暴力による搾取行為、地球の資源の浪費として爆発的に現われる。人類は罪に満ちており弁解の余地はなく、滅亡への広い道を歩んでいるのである。人間のうちに見られる神の形はこのように破壊されてしまったが、それでもなお、おたがいの間に愛の関係をもち、高貴な行動をなし、美しい芸術を創造する能力を有している。しかし、このような最高の人間の行為があったとしても、それは最終的に空しいものであり、神の御前に誰も立つことができないのである。

 

 又、人間は霊的な存在であるが、どのような霊的修練も、救いを達成するための工夫も、せいぜいその必要性をしばらく和らげるのみである。それによって、罪と罪過とさばきの現実から決して逃れることはできない。どのような人間的な救いの努力も、結局は失敗に終る。人類は自分たちだけでは永遠に滅びゆく運命にある。  

 

 それゆえ、人間の罪の現実を否定し、神のさばきを否定し、キリストの神性と受肉を否定し、十字架と復活の必要性も否定する偽りの福音は排除しなければならない。又、罪の現実を過小評価し、神の恵みと人間の救いへの努力を混同する中途半端な福音も認めることができない。私たち自身も、しばしば福音を軽々しく取り扱っていることを認めなければならない。福音を伝える場合、神の徹底的なさばきのことばと、恵みのみによる救いのことばの両者をいつも覚えておかねばならない。

 

(2)現代へのよきおとずれ

 生ける神が今日私たちを滅亡と絶望のうちに見捨てておかれないことを感謝したい。神は、愛のうちに私たちを救い新しく造りかえるためにイエス・キリストを送って下さった。それゆえ、よきおとずれは、歴史上のイエスという人物に焦点が当てられている。イエス・キリストは、謙遜な生涯を送り、人々に仕え、神の国を宣べ伝え、私たちのために死に、私たちに代わって十字架上で呪いを受け、罪の贖いをなして下さった。神は、三日目にこのイエスを死から引き上げられて、その事実を確証せられた。悔い改めてキリストを信じる者に、神は新生の恵みを与えられる。神は新しいいのちを与え、罪の赦しと、聖霊の内在と、超自然的な力を与えられる。また、救われた者をすべての民族と国民、および異なる文化を持つ人々による新しい共同体の一員とされる。また、やがての日に、新天新地に迎えられることを約束して下さる。そこでは悪は滅ぼされ、被造物は贖われ、神が永遠の統治者である。

 

 このよきおとずれは、教会であれ、公共の公場であれ、ラジオやテレビを通してであれ、野外であれ、どんな所でも大胆に宣べ伝えねばならない。なぜならこのよきおとずれは、救いに至らせる神の力であり、それを知らせる義務を私たちは負うているからである。私たちは、神が聖書のうちに啓示された真理を忠実に宣べ伝え、生きた状況に福音が適用できるように努力しなければならない。また、聖書の真理を弁証することの重要性を確認する。「福音を弁明し、立証する」(ピリピ1:7)と言われているとおりである。弁証することは、現代社会に効果的な証言をするための土台であり、宣教とは何かを聖書的に理解するために不可欠である。パウロは、聖書から説き明かし、福音の真理について彼らの魂に語りかけた。すべてのクリスチャンは、自分が持っている望みについていつでも弁明できる用意ができていなければならない(第1ペテロ3:15)。

 

 ここではまた、福音は貧しい人々へのよいおとずれであるとのルカ福音書の強い訴えを確認しておきたい(ルカ4:18・6:20・7:22)。そして、世界の多くの人々が貧しく、悩み、迫害を受けている事実に注目しなければならない。モーセ5書、預言書も諸文書も、イエスの教えと活動も、すべて、神が物質的に貧しい人々をあわれまれていることを強調している。それゆえ、私たちも、これらの人々のために配慮し、弁護的義務を負うているのである。また、神にのみあわれみを求めている霊的に貧しい人々についても聖書は言及している。福音は、霊的に貧しい人たちのためにあり、また、物質的に、貧しい人たちのためにもある。物質的な状況がどのようであれ、霊的に貧しい人は、神の前に自分を低くし、信仰によって、救いの自由な賜物を受ける。神の御国に入るそれ以外に道はない。また、物質的に貧しい人々や、無力な人々は、神の子としての新しい尊厳と、彼らを迫害したり、無視するすべてのものから解放するためにともに戦う兄弟姉妹たちの愛を受けるであろう。
 

 私たちは聖書の真理を伝えることに怠惰であってはならない。これを宣べ伝え、これを弁償するために全力を果たすべきである。貧しい人々が苦しんでいるのに、無関心であったり、ともすれば富める者に迎合する傾向のあったことを反省し、言葉においても、行動においてもすべての人々によいおとずれを伝えることによって、イエスに従うことを決意する。

 

(3)イエス・キリストの独自性

 現代の世界はますます多様化しているが、私たちはその中でキリストを宣べ伝えるように召し出されている。古い宗教があちこちで復活し、新興宗教も次々と現れている。1世紀においても、「多くの神々や多くの偶像」が存在した(第2コリント8:5)。しかし、その中で使徒たちは、大胆にキリストの独自性、唯一性、不可欠性について証言した。私たちも同様でなければならない。
 

 人間は神の形に造られており、彼らは被造物の中に創造主のしるしを見いだすから、色々な宗教は、ある程度までの真理と、美しさを含んでいることが多い。しかしそうだからといって、福音ととって替えることはできない。人類は罪深く、「全世界は悪いものの支配下にある」(第1ヨハネ5:9)から、どれほど信心深い人であっても、キリストの救いのわざを信仰によって受け入れなくても他の方法があるなどと主張することはできない。
 

 神はアブラハムと契約をなさったので、ユダヤ人はイエスをメシヤと認める必要がないと主張する人たちがある。しかし、ユダヤ人は他の誰よりもキリストを必要としていると言わねばならない。福音は「まずユダヤ人たちに宣べられ」という新約聖書の証言を離れることは一種の反セム主義であり、また、キリスト教の教えに背くことでもある。それゆえユダヤ人はキリスト信仰を必要としない独自の契約を持っているとする説を斥ける。
 

 私たちをひとつに結びつけているのはイエス・キリストはまことの神でありながら、まことの人となられた永遠の神の御子であり、私たちの身代わりとして十字架につけられ、私たちの不義を御自分の義と交換し、三日目に栄光の姿によみがえり、世をさばくために栄光のうちに再臨されるお方である。キリストのみが受肉された御子であり、救い主であり、主であり、さばき主であり、キリストのみが父を聖霊とともに礼拝すべきお方であり、すべての民の救いと従順の対象に値する。キリストがひとりであるから、福音も1つである。キリストのみが、その死と復活によって、救いの唯一の道である。神に至る道は色々あると言って他のすべての宗教や敬虔さを同じようにみる相対主義は否定されねばならない。また、キリスト信仰と他の信仰を交ぜ合わせるような混合主義も否定されねばならない。
 

 神はイエスを高く引き上げて、すべての人々が彼を認めるようにされたので、私たちも同じ望みを持っている。キリストの愛に動かされて、福音宣教の大命令を遂行し、失われた羊のような魂を愛すべきである。特に、キリストの聖なる御名があがめられ、キリストにのみ、栄光とほまれが帰せられるように願っている。
 

 過去において、キリスト教は、他の宗教を信じている人たちに対して、無知であり、傲慢であり、軽蔑や敵意すらも持っていた。私たちは、これが間違っていたことを認め、深く反省している。それにもかかわらず、イエス・キリストの御生涯と、死と、信仰の独自性について、積極で妥協しないあかしをしなければならない。お互いの信仰について語り合う時も、あらゆる伝道の場合においても、このあかしの姿勢は一貫していなければならない。

 

(4)福音と社会責任

 福音は、信仰者の生きた生活を通して、目に見えるものとならねばならない。神の愛を説く時には、愛の奉仕が伴わなければならないし、神の国を宣べる時には、正義と平和の姿勢が伴わなければならない。

 

 福音を宣べ伝えることは最優先されるべきである。なぜなら、私たちの主要な関心は、すべての人々がイエス・キリストを主、また、救い主として受け入れるようにと願っているからである。しかし、イエスが神の御国について宣べ伝えられただけでなく、恵みと力あるわざによって、御国の到来をあかしされたように、今日の私たちも、言葉と行為の両面性を無視することができない。謙遜に謙りながら、私たちは宣べ伝え、病人を見舞い、飢えた人々に食べさせ、投獄された人々を助け、身障者に配慮し、虐げられた人々に手を差し伸べる。それぞれ、霊の賜物は多様であり、おかれている状況や立場の違いを認めるとしても、よきおとずれと、良いわざは不可分であることも確認しておかねばならない。
 

 神の国の宣教は、それと相容れないすべての悪に対し預言者的な警告を発する。これらの悪は、今日、戦争体制(国家権力)の市民への抑圧、政治的腐敗、地球的資源の乱費と貧しい人々への搾取、家庭の崩壊、恣意的な中絶、麻薬取引、人権侵害などにあらわれている。世界の3分の2が飢えている状況を見過ごしにしてよいだろうか。神の形に似せて造られた何百万の人々が非人間的な状況におかれていることにも憤りを覚えざるを得ない。
 

 社会的な問題への私たちの継続的な関心は、神の国をキリスト教化された社会と混同することではない。むしろ、聖書的な福音は必ず社会的な関わりを持つことの確認である。それは、謙虚な気持ちで、悩んでいる人々の中に入り、社会的な問題や、悲しみや、苦しみや、抑圧者に対する正義の戦いに共感することである。そして犠牲を伴うことなく、このような共感の体験を得ることはできない。
 

 私たちの関心や幻が狭小であるために、イエス・キリストの主権が、私的であれ、公的であれ、地球的であれ、すべての生活に及ぶことを宣べ伝えることに失敗してきたことを認めねばならない。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」(マタイ6)との命令が真底から守られるように願っている。

 

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