すべての教会によって、福音はあますところなく宣べ伝えられなければならない。神のすべての民は、宣教のわざに参加するように召されている。しかし、聖霊の働きがなければ、あらゆる努力も空しいのである。
聖書は福音宣教の担い手は神御自身であるとあかしている。神の御霊は、真理と、愛と、きよさと、力の霊であり、聖霊抜きで福音宣教は不可能である。福音宣教をする者に油を注ぎ、ことばによって確認し、聞き手の心を耕し、罪人に、自分の罪を自覚させ、死者に生命を与え、悔い改めと信仰を与え、キリストの身体の肢体とし、神の子としての身分を確信させ、クリスチャンとしての思いと生活と奉仕のわざに成長させ、キリストのあかし人として送り出す、すべての働きは聖霊である。これらすべての働きの中で、聖霊が第一になさろうとすることは、私たちにイエス・キリストを示し、私たちのうちにイエス・キリストを形づくることにより、イエス・キリストに栄光を帰することである。
すべての宣教には、悪の主権者や、もろもろの悪霊に対する霊的な戦いを伴う。これらの戦いに勝利するには、霊的な武器が必要である。特に、祈りを伴った御言と御霊によらなければならない。それゆえ、すべてのクリスチャンは、教会の再生を世界宣教のために常に祈るように努めなければならない。
まことの回心とは、イエス・キリストの権威による聖なる御力のお働きである。この世にそれ以上の奇跡はないのであって、信仰者は回心を通して、サタンと罪のなわめ、恐れと空しさ、闇と死から解放せられる。在世中のイエスの奇跡は、イエスのメシヤであることの証拠であり、すべての被造物がキリストに従う御国の来ることを予想させるための特別のしるしであるが、今日、目に見えない形で生きて働かれる神の奇跡の力に限界をおく必要はない。私たちは今日奇跡など無いと頭から否定する懐疑主義も持たないし、奇跡は必ず来させると主張する高ぶった立場も取らない。また、御霊の充満を妨げる臆病さも持たないし、神の力の完全さを妨げる傲慢な勝利主義の立場も取らない。
自分の力に頼って伝道するとか、一方では、聖霊に命令するような立場で伝道しようとする自分かってなやり方を反省しなければならない。御霊を「悲しませたり」「消してしまったり」するのではなく、むしろ「力と、聖霊と、強い確信とによって」よい知らせを宣べ伝えるように祈り求めるべきである。
神は宣教の主権者であるが、救われた者たちを、御自分の「同労者」として下さった(第1コリント6:1)。私たちは神の働きなしにあかしをすることは不可能であるが、神は通常、私たちを用いてあかしされる。神はある人を立てて、伝道者とし、またある人を宣教師、またある人を牧師とされるが、すべの教会と、すべての信徒をあかし人として召しておられる。
牧師と教師の特権は、神の民をキリストにあって成長させることである(コロサイ1:28)。また、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの身体を建て上げさせることである(エペソ4:11-12)。牧師は神の働きを画一化するのではなく、むしろ多様化することによって彼らの賜物が生き生きと用いられ、また、人々をキリストの弟子とすることができるように訓練する。牧師によって信徒が支配されることは教会史の中に見られる大いなる害悪の1つである。それによって、神の与えられた役割を信徒も牧師も果たすことができなくなり、牧師は役立たずになり、教会の力を弱らせ、福音の進展を妨げている。何よりも聖書の教えそのものに反している。こうして何世紀も「万人祭司制」を強調してきた教会は、今、再び、万人祭司制を強調するのである。
私たちは、子供たちや青年たちが彼らの信仰と情勢によって教会の礼拝とあかしの広がりを豊かにしていることを感謝したい。彼らに伝道と教えの訓練を施すことによって、彼らの同世代の人々にさらに力強く、キリストを宣べ伝えるようになるであろう。
神は、男も女も、御自分の形に造られた(創世記1:17-26)。キリストにあっては、男子と女子の差別はない(ガラテヤ3:28)。神の御霊は、すべての人たちの上に注がれる(使徒言行録2:17-18)。聖霊は、男にも女にも賜物を分け与えられるから、それぞれに与えられた賜物を用いることができるための機会を与えなければならない。女性の賜物がよく用いられた記録は宣教の歴史の中に見ることができるし、今日も同じように用いて下さるのである。教会の中での女性のリーダーシップの位置付けについて意見はまちまちであるが、世界的な宣教のわざにおいて、女性の賜物も男性の賜物もともに用いられなければならないことについては意見の一致がある。それゆえ、女性も男性と同じく、適当な教育を受ける機会を与えなければならない。
信徒たちのあかしは教会(第8項参照)を通してなされるだけでなく、家庭や仕事場での友好関係を通してもなされて行く。身よりのない者たちや失業中の人たちであってもあかし人として召されている。
あかしの対象となる第一の人々は、まず、友人であり、親戚であり、隣人であり、同僚である。家庭を通してのあかしは結婚した人にとっても、独身者にとっても自然である。クリスチャン・ホームは、結婚生活の標準として、夫婦生活も家族の連帯性においても模範となり、心に傷を負った人々に、愛と平和の安息所を提供するが、同時に、普段は教会に入ることを躊躇する人も家庭集会であれば気軽に参加して、キリスト教について話し合うことができる。
信徒があかしをする今一つの場所は職場である。壮年のクリスチャンは職場で日常生活の大部分を過ごすのであり、仕事そのものが神の尊い召しによる。クリスチャンは、言葉と生活態度と勤勉で正直な労働と、職場での正義と公正への関心と、日常の仕事ぶりから神の栄光があらわれるようにして、キリストを他の人々に推薦するのである。
私たちは、これまで、女性と青年たちによる信徒の働きを十分用いてこなかったことを反省する。キリストを信じるすべての人々が、自然な形で、正しくその賜物を発揮してあかしができるように配慮しなければならない。宣教の本質は、キリストの愛が心から溢れ出るところに存在するからである。ここから、キリストに救われたすべての人々が例外なく宣教のわざに参加すべき意味が明らかにせられてくる。
生まれ変わった生活そのもの以上に、福音を伝えるための雄弁はない、また、言動不一致のあかしほど信用を落すものはない。私たちはキリストの福音にふさわしく生きるように召されおり、その香りを放つようにとすら召されているのである。聖い生活によって、福音の美しさは輝きを増すのである。キリストの弟子たちが宣べ伝えた福音の内容が具体的に見えるようにと世の中の人々は求めている。その際の最も強いあかしは、私たちのひたむきな姿勢である。
キリストが私たちのために死んで神との和解を達成して下さったという福音は、霊的に渇いている人たちにアピールする。しかし私たち自身が生ける神を知っているというあかしがなければ、また、教会の礼拝が真剣さを欠き、抽象的なものにすぎなければ、彼らは私たちを信用しないであろう。
キリストが遠く離れている人々を和解させ、結び合わせて下さったというメッセージも私たちがお互いに愛し合い、赦し合い、謙遜に仕え合い、自分たちの居心地の良い共同体を越えて、貧しい人たちに犠牲を払って愛の奉仕をなそうとしている時にのみ、鳴り響くのである。
他の人に向かって自分を否定し、十字架を負ってキリストに従いなさいと言いながら、自分自身が野心や、不正直や、むさぼりの罪に死んでいないとするならば、説得力に欠けるであろう。質素で、何事にも足るを知り、寛容であって、はじめてメッセージは訴える力を持つ。
私たちは、個人としても教会としても、その態度に一貫性を欠き、多くの失敗を重ねてきたことを告白しなければならない。それは物質的貪欲であり、教職者の間の争いや優越感であり、奉仕の働きの中に競争意識を持ち込むことであり、自分より年下の者が指導者になったことへのそねみであり、宣教師の父権主義であり、責任のなすりあいであり、性的放縦であり、人種的差別、社会的差別、性的差別である。これらすべては、この世の霊であり、教会がこの世の文化と戦ってこれを変えるのではなく、世俗文化が教会を侵し易くすることに身を委ねるのである。個人としても、教会としても、口でキリストを告白しながら、行動で否定してきた時代があったことを深く反省する。このような言行不一致がクリスチャンのあかしの力を奪ってしまった。そしてこのような世俗との戦いが今も続き、多くの場合、失敗を重ねていることを認めなければならない。しかし、神の恵みによって、個人としても教会としても、ひたすらなるあかしの姿勢を貫こうと今決意するのである。